ミツバチのささやき

【MOVIE REVIEW】

ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ、1973年)
先日、早稲田松竹にてスペインの監督ビクトル・エリセの映画を見ました。『ミツバチのささやき』は、一篇の長い抒情詩のような映画です。いつだって「子ども」という存在が抱えるもろく柔らかな心の躍動、畏敬・憧憬・恐怖といったさまざまな感情の変化を、とても静かに、詩情豊かに具象化した作品です。

「なぜ、殺したの?」―物語の冒頭、街の公民館で映画『フランケンシュタイン』を見た主人公の少女アナは、姉に尋ねます。画面に映し出されるまっすぐな丸い瞳。姉イサベルは答えます。フランケンシュタインは本当は死んでなんかいない。彼は怪物ではなく精霊で、今でも街外れの廃墟に住んでいるのだと。姉の話を信じたアナは、精霊・フランケンシュタインと友達になりたいと思います。そして夜になると目を閉じて、そっと囁くのでした。「ソイ・アナ(わたしはアナ)…」と。

この映画を見て驚いたのは、何よりこれを作ったのが大人であるということ(当たり前ですけれど)。子どもの頃、きっと誰もが抱いていた「大人」世界への漠然とした恐怖や違和感、それと矛盾した憧れ、ある種のグロテスクさ、何かひとつのことで心がいっぱいになることや純粋に何かを信じる(あるいは思い込む)ということ。静寂に浮かぶアナの瞳を見ていると、世界があまりに巨大で、自分の周りすべてに不思議が溢れていたあの頃のことが、あまりに生々しく思い出されます。それは映画中たびたび表される、窓辺の麗らかな陽光と薄暗い室内、雄大に広がる自然と小さなアナ、といった映像の対比などからも感じとれます。

大人として生きている(あるいは生きようとしている)と、日々虚構と現実の境界線が明確になっていくのを感じます。心に溢れていた不可思議が、だんだんと遠く小さくなっていくのを感じます。ふと気づいたときにはもう、現実という圧倒的な現実が、まるで岩壁のように目の前に横たわっていて、想像力は、定められた枠組みの中で小さく空回りする。こんな風に書くと単なるピーターパン症候群であることがバレてしまいますが(!)ただ、私は一人の大人として、この先もできるだけずっと、「子どもの心」の価値を理解していたいと思っています。何かを心から恐れたり、面白がったり、愉しんだりする、無垢で瑞々しい感性。10年後も20年後も、シワシワのおばあさんになっても、この気持ちは決して忘れたくないなあと思います。

映画が、そんな思いを新たにしてくれました。

Text by NANASE

レヴィ=ストロース追悼


先月の30日、「構造主義の祖」といわれるフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースが亡くなった。100歳だったという。

レヴィ=ストロース構造主義は、各社会において人間を本質的に支配している無意識の「構造」を明らかにした。個人を支える価値というものは絶対的ではなく、言語や民族、社会などあらゆる要素が連関した構造に支配されている。それ故、それぞれの社会や民族に単純な優劣をつけることなど不可能である。この思想は、進歩・発展への信仰に彩られた近代の西洋中心主義を否定し、従来非合理的で遅れていると考えられてきた未開の土地の諸文化に光をあてた。ポストモダンの流れの中で登場した彼の思想は、今なお世界中の多くの人々に影響を与え続けている。

彼に影響を受けた人類学者の一人、中沢新一は、ある対談集の中でレヴィ=ストロースの思想を仏教との関わりというユニークな視点から論じている。
人間の精神が、貝殻の美と同じような美をその文化を通じて実現できたとき、この地球上に存在しても悪い生き物じゃないんだということをレヴィ=ストロースはしきりに語ってきました。
中沢の解釈によれば、人間は自然の中に文化を形成したことによってどうしようもなく不幸な存在になってしまったけれど、自然と文化のちょうど良い調停点を探すことによってそれを克服できる。その「中観」的な思想が、仏教なのだと。中沢がチベット仏教の研究にのめり込むきっかけにも、構造主義の思想があったという。私はこれを読んだとき、その新鮮な発見に心が躍った。

このブログにも何度か登場しているエドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」批判からも言えることだが、「異文化をどう理解するのか」は人類にとって今も昔も極めて重要な課題である。とりわけインターネットという画期的なメディアの普及、それとともに急速に進む近年のグローバル社会の中では、ますます大きな問題として提起されるようになっている。だからこそ私は、構造人類学の創始から50年以上を経た今、レヴィ=ストロースの残したものを再考する意義を強調したい。世界に溢れる差異を知り、その多様性をありありと認識した上で、日本人として何を受信し、発信することができるのか。レヴィ=ストロースという偉大な知識人の死は、私たちにもう一度「思考すること」の重要性を説いている。そんな気がしてならない。

中沢新一/河合隼雄ブッダの夢 河合隼雄中沢新一の対話』(2001年,朝日新聞社)より
Text by NANASE

愛しい想像力!


“想像力”―それは誰もが持つ魔法のような力。

我々は多くの場合、周りに存在する多種多様な事物(目に見えないものも含む)を当たり前のように受け入れ、まるでそれが当然であるかのように、何食わぬ顔で、現実生活を営んでいる。

お気に入りの映画や音楽、小説etc…。我々がそれらの包含する何かに惹かれるとしたら、それは我々が自身の想像力をもってそこに何らかの美を感じ取っているからであろう。あるいは芸術家は、多くの場合通り過ぎてしまいがちである世界の事物を自身の視点から捉えなおし、そこへ自己の想像力を投影し、独自の表象へと変換する。様々な要素を自由自在に連結させ、分離させ、人々を新たな世界へと誘う“想像力”は、まさに魔法のようだ。

イギリスの哲学者コリングウッドによれば、芸術活動とは想像力を本源とする活動である。シュルレアリスム運動の第一人者アンドレ・ブルトンは言う。“想像力を隷従に追いこむ事は、たとえ大まかに幸福などとよばれるものがかかわっているばあいでも、自分の奥底に見だされる至高の正義のすべてから目をそらすことに等しい”と。

芸術表現だけではない。想像力の欠如は他者との相互理解を阻み、異文化の共存を不可能なものにする。多様性への視座は我々に様々な新しい可能性を与えてくれるが、相互不理解は無益な戦闘や差別を生み出す。世界をこれ程までに面白いものにした美しき多様性。これを理解するには、柔軟で豊かな想像力が必要不可欠だ。

…という訳で、明日からの一週間を勝手に“想像力週間”と名付けたいと思います。例えば電車の中、あるいはオフィスで街なかで。柔軟で豊かな想像力を鍛えるため、色々なことやものを日々妄想したいと思います。皆さんもおヒマがあればぜひとも一緒に楽しい妄想、もとい、想像に励みませんか!ふふふ。
*参照*岩城見一編集『感性論-認識機械論としての〈美学〉の今日的課題』(1997年、晃洋書房),アンドレブルトンシュルレアリスム宣言/溶ける魚』巌谷國士訳(1999年、岩波書店)

Text by NANASE

チェコアニメ傑作選

【MOVIE REVIEW】

現在、東京・新宿のK's cinema:title=K's cinema]にて「チェコアニメ傑作選」が上映中です(11月6日まで)。

このブログでも度々取り上げてきたチェコという国は、言わずと知れたアニメ大国。カレル・ゼマン、イジートルンカヤン・シュヴァンクマイエルなど、偉大な作家を多数輩出しています。このようなチェコアニメの隆盛には、同国の伝統文化である人形劇の影響があるようです。

なぜ、人形劇なのか?そもそもの起源は、ケルト人の宗教的な儀式にあるといわれています。15,6世紀頃より始まるハプスブルク帝国の支配の中で、人々は公式な場でのチェコ語の使用を禁止されるようになります。その中で唯一チェコ語を使用できる場所が、人形劇や民謡だったのです。その後19世紀末にハプスブルク帝国からの脱却を目指して起こった民族復興運動において、人形劇がチェコの土着文化や母国語の復権を担う鍵として重要視された、という経緯があるようです。

シュヴァンクマイエルも自身の作品に度々「操り人形」を登場させますが、これには彼の創作テーマである「自由と操作」の表象が深く関わっています。目に見えない圧倒的な権力に支配・操作されながらそのことにすら気づくことのない現代の危険な社会構図の中で、人々は自身の内心を守る努力を怠っているのではないか?それが彼の権力論の根幹であると私は理解していますが、作品中に登場するグロテスクな操り人形たちは、彼の目から見た現代社会における「操作性」の象徴なのではないでしょうか。

上映中の「チェコアニメ傑作選」においては、シュヴァンクマイエルをはじめコウツキー、トルンカ、ポヤルなどチェコアニメの巨匠たちの作品を6本立てで観ることができます。それぞれがユニークで、チェコ文化の底力を感じさせる魅力的な作品ばかりです。とりわけコウツキーの「視角の外」(約3分)は必見です!

Text by NANASE

ひかりのまち

【MOVIE REVIEW】

ひかりのまち』(マイケル・ウィンターボトム監督、1999年)

スタッフのリーサさんにおすすめされて観た、マイケル・ウィンターボトム監督の『ひかりのまち』。作品の原題は「WONDERLAND」ですが、「ひかりのまち」という邦題が素敵だと思います。

ストーリーの舞台は、ロンドンの街角。気持ちのすれ違う老夫婦と独立した子どもたちそれぞれの、何と言うことはない、とある週末。それぞれの日常の些細な出来事の中に滲み出る複雑な感情や事情を、独特なリアリスティックさをもって描き出します。映像にやさしく溶け出す、マイケル・ナイマンの繊細な音楽も魅力的です。

この世界に生きている限り日々生まれ来る、些細な変化や新しい出会いや多様な感情。私たち誰もがゆるやかに共有している、同じ時間や空間、「もしかしたら明日出会うかもしれない」という奇跡の可能性。同じような日常に見えても、世界はダイナミックに躍動しています。規模は違うものの、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』が描き出すものとの共通性を感じました。

特別にドラマチックで感動的な映画、という訳ではありません。特別に悲劇的あるいは幸せな結末のある映画、という訳でもありません。ただ、人と人の心が触れ合うとき生まれる、些細だけれど圧倒的な美しさ。そんなものの存在を、とても優しい温度で、それとなく、思い出させてくれる作品だと思います。

Text by NANASE

『おんなのことあめ』


ミレナ・ルケショバー/ヤン・クドゥラーチェク『おんなのことあめ』(1977年、ほるぷ出版)

この間たまたま入ったブック・カフェで、完璧な絵本に出会いました。チェコの人気絵本作家ミレナ・ルケショバーと画家ヤン・クドゥラーチェクの合作絵本『おんなのことあめ』です。

『おんなのことあめ』は、心優しい女の子と寂しがり屋の雨の物語です。ヤン・クドゥラーチェクの描く淡い色彩が、やわらかで、繊細で、1ページ1ページが宝物のように美しいです。雨の大きくてまんまるい目に、私の心まで見透かされていくよう。全体を通してとても穏やかな絵本ですが、物語には確かな抑揚があります。絵と文が愛おしく溶け合って、新鮮な歓びが心を満たします。

私はレインコートに長靴をはいて、虹色の雨の街を歩き、耳元で囁く小糠雨の優しい声を聴きました。さらさらと空中を舞う細かい水滴たちの、瑞々しい匂いや、皮膚に触る感触を感じました。もう絵本は手元にありませんが、目を閉じると、そのときの情景がはっきりと心に浮かびます。

手にとって表紙を見た瞬間から何か感じるものがありましたが、読み終わった後、感動でしばらく呆然としてしまいました。あまりに美しい絵本体験で、思わず涙が出てしまいました。私はますます、絵本というものが好きになってしまったようです。

現在は絶版で入手困難というこの絵本。もしも図書館や古書店で目にしたら、ぜひ手にとってみてください。

Text by NANASE

『Children of Nature』

【MOVIE REVIEW】

『Children of Nature』(Fridrik Thor Fridriksson監督、1991年)

先週から何だかしつこいですが、今度はアイスランドの映画作品をご紹介します。

レイキャビクの老人ホームで数十年ぶりに再会した幼馴染の男女2人が、「最期のときを故郷で迎えたい」との思いから窮屈なホームを抜け出し、遠く離れた辺境の地へと向かう物語です。

アイスランドの驚くほど雄大な自然の情景と、孤独な老人2人。映像の中で不思議なまでに一体化した両者は、とても自然で、とても軽やかです。絶望、憎しみ、不安、諦め、寂しさ、望郷、希望、愛情、喜び、感謝…あらゆる人間的な感情が広大な大地に吸い込まれていく光景に、私自身も吸い込まれてしまいそうでした。映画全体としてものすごく完成度の高い作品とは言えないのですが、そこには忘れがたき純粋な美しさがあります。

人はなぜ生まれ、なぜ生き、老い、死んでいくのでしょうか。人はその死を迎えるとき、何を願うのでしょうか。こんな壮大な問いを堂々と書いてしまうのもちょっと恥ずかしいですが、しかし、これこそ多くの人間が古来より考え続けてきた究極の問いであり、私自身がこれからも人生をかけて考え続けていくであろう重要なテーマです。私はこの映画を見て、この問いが改めて無限で果てしないものに感じられました。答えは、あまりに遠い。私は少しだけ絶望して、少しだけ気が楽になりました。

この映画、日本では1994年に『春にして君を想う』という題で公開されたようなのですが、私にはこの邦題がどうもしっくりこないので、原題で紹介させていただきました。ちなみに挿入曲としてBjorkの前バンド・The Sugarcubesの曲が使われています。

Text by NANASE