美しいものはただそれだけで用を為しているから(前編)

ふだん、国内外の実にたくさんのアートブックや作品集を見る(「たくさん」とは、たとえば週に1000冊くらいです、おおよそ)なかで、すぐれたアート作品とそうではない作品がどう違うのか、そもそも「アート固有の領域」というものがあるとすれば、それはデザインの領域や工芸の領域と比べ、どこが重ならないのかといったことを、いやがおうにも考えることになる。

半製品のようなくだらない作品を収めた本ばかり売っている苦痛なことはない。僕はいつもすぐれた作品が収められた本ばかりを扱いたいとねがい、一冊の本のなかの一枚の絵、ひとつの作品、あるいは一行のテキストが、お客さんの考え方に何かしらの影響を与えるなら、本屋は世界でいちばんやりがいのある仕事のひとつだと思っている。

本題に戻ります。フラ・アンジェリコレオナルド・ダ・ヴィンチパウル・クレーエドワード・ホッパーのえがく絵は、完成度が高く、構図や色彩感覚、タッチにおいてバランス感覚に優れていて、観るものに何かしらの実際的効用を持つ(ミュージアムショップで彼らのポストカードが多いのは、それが売れるからだと思う)という意味では、太田和彦の資生堂のデザインワークの領域とどこがどう違うのだろうか?

アートやデザイン、クラフトはすべて人が優れたものを作ろうと考え、その結果として産み出されるものだから、すぐれたものはこれらのカテゴライズに関わらない似た要素を擁している。それは潮の満ち引きのように、アートやデザインの境界線を行ったりきたりする。

美しいものはただそれだけで用を為していると僕は本気で思っている。正確に言うと、美しくあるものは、です。そして、「美しくある」というそのことが、アート固有の領域だと思う。もちろんボードレール以後の美術史の変遷を知らないわけではありません。脱構築とはあらたな構築を意味しているから、まいど重要性を失わない。僕が言いたいのはただ、あらゆる(文字どおり、ありとあらゆる意味において)政治的な思惑の外で、美しいアート作品は、今にも壊れそうな自律性を保っているからその姿が美しく、その姿であるという意味においてすでに自足的に成立しているのだ、と、そういうことです。

(後編につづきます)。

Text by Yuuki