恢復の物語としてのCOPELAND

【MUSIC REVIEW】

COPELAND[In Motion](2005/アメリカ)他すべてのアルバム


ロックという音楽が持つ最大の特質は、それが抵抗の歌(レジスタンスソング)であり得るという点だろう。つねにそうであるわけではないけれど。時に…。

ロックという音楽は時に体現する、野蛮なものや知性を欠落させたものや鈍感なものや正義のふりをする雄弁なものに対し、この音楽を愛する人たちが突きつける寡黙な「ノー」を。

誰も忘れていない。80年代に裁判沙汰に巻き込まれながらも、時間をかけてアルバムを作っていったブルース・スプリングスティーンのことを。それらのアルバムには、アメリカの市井の人びとの声無き声がかたっぱしから詰め込まれていたことを。彼がロックが忘れかけていたレジスタンスソングのルーツを貪欲に追求したことを…

スプリングスティーンは、旅人が渇きを癒すため豊かな水を求めて谷底に降りてゆくように、自らの深く暗い心理や内面、自意識に、ロックという名のタラップを垂らして降りていった。その結果として、彼の音楽が何かを代弁しない筈はなかったし、それ故に、人びとは憑かれたようにスプリングスティーンを聴くことになった。

人びとの目には、そのアルバムは、あたかも自分自身が描かれたキャンバスのように映ったように思われる。

いま、あらゆる価値体系の相対化が進み、人はいったい本当は何が正しいのかを推し測る術さえを喪い続けている。COPELANDコープランド)もまたスプリングスティーンと同じように、そのような「現在」を生きる人びとの心象風景を、極めて完成度の高い楽曲を通して描出している。wilcoと並走しながら。

あるいはwilcoよりも暗い、ほとんど絶望を思い起こさせる歌詞とコード進行で。彼らは細く暗い道を行くように音楽を紡ぎだしてゆく…何の光も見えなくても、それがただひとつの道だからとでも言いたげに。もしアートや音楽の表現に夢や希望が残されているとするならば、喪われつつある現在を描くことでそこに恢復の方法を探るというやり方もあるのかも知れないと聴く者に問いかけるように。

COPELANDの音楽にはポスト・ロックのあらゆる手法が駆使されているけれど、その言葉どおり「ロック後」を思わせることはない。

相対化された価値観のなかで決められたルールすら見失い、クラゲのように左右に揺れながら表現するほかはない現在のアーティストの姿を、COPELANDは惜しげも無く、その音楽を聴くものののまえにさらし出してくれる。表現に対するその真摯な姿が、聴くものに「次の何か」を思わせる。次が何かは実際にはわからないとしても…それがCOPELAND流の「現在の恢復」の方法であり、恢復の物語としてのCOPELANDなのだと思わずにはいられない。

2009年、COPELANDはその音楽を通し、どんな世界を見せてくれるのだろう。そして僕は、そこにどんな物語を新しく読み取ることになるのだろう。

TEXT BY HAYASAKI