アワー・ミュージック


『アワー・ミュージック』(監督ジャン=リュック・ゴダール,2004年)

現代の世界は、自分の不幸を嘆きたがる側とその嘆きを毎日聞くことで自分の心を慰め優越感を感じる側に分かれる。

ヒントのような短い言葉の連続の中から、我々が我々自身の力によって思想を掬い取り、あまりに残酷で複雑な現実世界と向き合うことを求められる。「我々はなぜ戦うのか?我々はどこへ向かっているのか?」―単刀直入にいえば、この巨大な問いをゴダール彼自身の視点から極限まで具象化し、あるいは抽象化し、一つの芸術へと昇華させた映像作品であるといえよう。

舞台は悲惨な内戦を経た後のボスニアの首都サラエヴォ(ボスニアでは1992年の独立宣言以降、独立反対派のセルビア人勢力と賛成派のムスリム人・クロアチア人勢力との間で激しい内戦が展開され、とりわけ1995年7月サラエヴォ近郊の町スレブレニツァにおいて約8000人のムスリム人が殺害された大虐殺の悲劇は当時の国際社会に大きな衝撃を与えた)。といっても本作品はボスニア内戦の悲劇を直接的に描くようなドキュメンタリー・タッチものではなく、イスラエルパレスチナの対立やネイティブ・アメリカンの迫害史など、現代世界を取り巻く様々な問題をある種の象徴としての「サラエヴォ」に凝縮し、より普遍的な形で、しかしどこまでも映画的な一つの「物語」として、戦争という難解極まりないテーマへのアプローチを試みている。

作品中にはパレスチナの詩人ダーウィッシュが本人役で登場するが、彼はユダヤ人の女性ジャーナリストに向かって真実というものに付随する複数の見方の存在を強調しながら「詩とは将来への命題か、あるいは権力が使う道具の一つなのだろうか」と投げかける。そして言う「喪失のなかにこそ偉大な詩は生まれる」と。政治と芸術は常に密接に結びついている。抵抗の詩が時として人々を解放する一方で、権力者は支配のために詩を利用する。それは映画にも音楽にも同様である。それらが持つ力の大きさについて、一体我々はどれだけ正しく理解しているのだろうか?

映画『アワーミュージック』は、一度きりで全てを理解できる作品ではないと思う。私は三回見て、やっとそれが言わんとしている思考の片端を理解した。だからといって、特別難解な作品なわけではない(むしろゴダール作品の中では分かりやすい方なのかもしれない。ただあまりに示唆的な言葉の連鎖の中では少しだけ立ち止まって考える時間が必要なのだ)。

私はきっとこれからも暫くは続くであろう未定に彩られた人生の中で、折に触れてこの作品と向き合うのであろうし、その都度世界の躍動と人間の針路について考え、悩み続けるのだと思う。

Text by NANASE