善き人のためのソナタ

【MOVIE REVIEW】

善き人のためのソナタ』(監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク,2006年)

舞台はベルリンの壁が崩壊する5年前の東ドイツ。強固な共産主義体制下にあって芸術家からあらゆる自由が剥奪されていた時代である。命の危険を侵しながらも水面下で体制への反抗を続けた芸術家と、それを取り締まる秘密組織“シュタージ”の大尉との間に生まれた不思議な心の交流を描く。

社会にとって芸術という存在がいかに大切であるか。芸術家の自由が政治や権力によって奪われるとき、その社会はすべての美しきものを失う。後に残されるのは、ただ絶望と無感動だけだ。すべての感情の発露として「表現したい」と望む者たちにとって、そのような社会で生きていくことは困難を極めるだろう。映画中においても、当時の東ドイツの自殺率の高さが指摘されている。政治学者・姜尚中の「人間性の回復は、結局は愛と芸術によってしか得られない。」(公式HPより,一部抜粋)というコメントに私は共感する。社会が不完全な人間の集合体である限り、それを根幹で支えるものは結局政治や法律ではなく、誰もがどこかに持つであろうあの瑞々しい感覚なのかもしれない。

映画を形作るそれぞれの要素がそれぞれに呼応し合いながら、やわらかな音楽となって心に浸透する。明るい物語ではないが、そこには確かな気品と美しさがある。監督のFlorian Henckel Von Donnermarckは、本作が初の長編作品というから驚きである。世界的な名声を勝ち得、今後彼はどのような映画をつくっていくのだろうか。今後の展開にも注目したい。

Text by NANASE