múmの音楽

【MUSIC REVIEW】

こんにちは。東京はすっかり秋めいてきました。そろそろ冬服を出さなくてはいけませんね。

先日、TAICOCLUBという野外イベントで、múmの演奏を聴きました。múmは2人のコアメンバーを中心としながら様々な形態で新しい音楽を作り続けているアイスランドエレクトロニカ・ユニットです。

múmの、あの多様で実験的な音楽が、日本のステージ上でどのように響くのだろう?夜風のびゅんびゅん吹き付ける海岸のヘリポートで、彼らは一体どんな演奏を繰り広げるのだろう?演奏が始まる前、私は大きな期待に胸膨らませていました。

ステージにメンバーが現れて、耳慣れたノイズが風にのって私のもとに訪れたとき、私の全身はある美しい感覚に包まれました。それはまるで、形あるものすべてが、私という感覚のために生み出されたひとつのイメージで、ごくわずかな具体性すらもたず、あらゆる意味が無意味へと溶け出すような、そんな世界です。私には、彼らの音楽が小さなステージのあちこちからカラフルな音符となって飛び出してくるのが分かりました。

私は確信しました。「そうだ、これこそが、子どものときに見ていた世界だったんだ!」一年半程前、武道館でBjorkを見たときも同じような感覚を味わいました。子ども時代の感性の問題は、私にとって大きな研究テーマです。音楽はいつだって、あの頃のやわらかな感性と透明な歓びをやさしく呼び覚ましてくれるのです。

múmといいBjorkといいSigur Rosといい、アイスランドって改めてすごい国だなあと思います。いつか必ず訪れてみたい…想いはつのるばかりです。

Text by NANASE

フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』

【BOOK REVIEW】

F.スコット・フィッツジェラルド『若者はみな悲しい』小川高義訳(2008年、光文社)

今年の春頃から、フィッツジェラルド(1896〜1940)に夢中です。色々と濫読した中で、特に印象深い自選短編集をご紹介します。

フィッツジェラルド1920年代のアメリカを代表する人気作家。雑誌向けの短編小説などを量産しながら生計をたてるというスタイルやその作風から、華やかな世界を生きた作家というイメージがありますが、『マイ・ロスト・シティ』(村上春樹訳、1984中央公論社)などを読む限り、そんなに単純な生涯ではないようです。華やかさの一方でどうにもしようもない不安や破滅への恐怖を抱え、情熱的なようで冷笑的でもある。そのような彼自身の二面性は、彼の生み出す作品の根底に流れるものと共通するような気がします。

本書の原題は『ALL THE SAD YOUNG MEN』ですが、私はこの『若者はみな悲しい』という邦訳が気に入っています。登場人物たちはみな心の奥底に様々な形の悲しみや苦悩を抱えているのですが、しかしそこにはまた若者特有の溌剌とした生命力が秘められています。本書の作品全体を覆うのは、深い悲しみというよりは、ある種の冷笑と溶け合う刹那的な美しさです。

本書に収載された短編作品の中でも、特に「冬の夢」と「『常識』」は傑作だと思います。少ない文字数の中に、ときめきや歓び、胸の痛み、心苦しさ、悲しみ、美しさというような、人間という存在を支える多様な要素が凝縮されているのです。

フィッツジェラルド作品の凄みは、それらの要素は確かに凝縮されているのだけれども、決してぎゅうぎゅう詰めではなく、それとなく、何となく、じわじわと徐徐に滲み出てくるような形に加工され、読者が気づいたときにはもう、幾つもの小さな破片が心に刺さって抜けない状態になってしまっている、という所だと思います。読み終わった後でさえ、例えば日常の些末な業務の最中などにふと、作品中の短い一文や描かれた瞬間の情景を思い出すことがあります。それは何も、読んだ時点でものすごく印象的であった作品に限りません。作品から得た色々な断片が一瞬の輝きとして脳裏に焼きつき、時々気まぐれに、そっと姿を現すのです。

彼の作品はきっとこれからもそんな風に、何度も何度も私の人生に現れては、消えてゆくのだと思います。

Text by NANASE

善き人のためのソナタ

【MOVIE REVIEW】

善き人のためのソナタ』(監督フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク,2006年)

舞台はベルリンの壁が崩壊する5年前の東ドイツ。強固な共産主義体制下にあって芸術家からあらゆる自由が剥奪されていた時代である。命の危険を侵しながらも水面下で体制への反抗を続けた芸術家と、それを取り締まる秘密組織“シュタージ”の大尉との間に生まれた不思議な心の交流を描く。

社会にとって芸術という存在がいかに大切であるか。芸術家の自由が政治や権力によって奪われるとき、その社会はすべての美しきものを失う。後に残されるのは、ただ絶望と無感動だけだ。すべての感情の発露として「表現したい」と望む者たちにとって、そのような社会で生きていくことは困難を極めるだろう。映画中においても、当時の東ドイツの自殺率の高さが指摘されている。政治学者・姜尚中の「人間性の回復は、結局は愛と芸術によってしか得られない。」(公式HPより,一部抜粋)というコメントに私は共感する。社会が不完全な人間の集合体である限り、それを根幹で支えるものは結局政治や法律ではなく、誰もがどこかに持つであろうあの瑞々しい感覚なのかもしれない。

映画を形作るそれぞれの要素がそれぞれに呼応し合いながら、やわらかな音楽となって心に浸透する。明るい物語ではないが、そこには確かな気品と美しさがある。監督のFlorian Henckel Von Donnermarckは、本作が初の長編作品というから驚きである。世界的な名声を勝ち得、今後彼はどのような映画をつくっていくのだろうか。今後の展開にも注目したい。

Text by NANASE

寺山修司編著『日本童謡詩集』

【BOOK REVIEW】

寺山修司編著/宇野亜喜良装丁『日本童謡詩集』(1992年、立風書房)

以前、スウェーデンの童謡集についてレビューを書いたことがありますが、今日は一風変わった日本の童謡集を取り上げたいと思います。

寺山修司が編著を担当した本書『日本童謡詩集』は、ただの“童謡”集ではありません。選定の基準は「それが子供のために作られたものかどうか」ではなく「それが子供とともに在った唄かどうか」です。だから、唱歌やわらべ歌に限らず、軍歌やテレビ番組の主題歌など、幅広い曲が収載されています。

プロローグで寺山は自らのユニークな童謡体験を紹介していますが、誰しもそれぞれの童謡体験を持っていると思います。私の場合、小さな頃によく遊びながら歌った「あーぶくたった煮えたった」の歌や「どんぐりころころ」などが心に残っています。大人になった(年齢上は…笑)今でも、時折それらを口ずさむと、微かですがあの頃の気持ちや私の周りに漂っていた空気や匂い、感触などを思い出します。それが全て良い思い出とは限りませんが、歌というのは不思議なもので、意識せずとも人それぞれのフィルターを通して聴こえてくるものなのです。寺山は言います。「唄は、もはや音楽などといった一ジャンルにとどまるものではなく、社会全体を想像力のなかで再組織してゆくドラマツルギー」であると。

本書に収載された童謡詩を読んでいると、「日本には素晴らしい歌がたくさんあるのだなあ」と改めて気づかされます。悲しい思い出やその時の社会背景、言葉遊びや季節の情景、いろいろなものがごちゃ混ぜに詰め込まれた“童謡”は、いつだって「人の営み」というものの面白さを教えてくれるのです。

Text by NANASE

アワー・ミュージック


『アワー・ミュージック』(監督ジャン=リュック・ゴダール,2004年)

現代の世界は、自分の不幸を嘆きたがる側とその嘆きを毎日聞くことで自分の心を慰め優越感を感じる側に分かれる。

ヒントのような短い言葉の連続の中から、我々が我々自身の力によって思想を掬い取り、あまりに残酷で複雑な現実世界と向き合うことを求められる。「我々はなぜ戦うのか?我々はどこへ向かっているのか?」―単刀直入にいえば、この巨大な問いをゴダール彼自身の視点から極限まで具象化し、あるいは抽象化し、一つの芸術へと昇華させた映像作品であるといえよう。

舞台は悲惨な内戦を経た後のボスニアの首都サラエヴォ(ボスニアでは1992年の独立宣言以降、独立反対派のセルビア人勢力と賛成派のムスリム人・クロアチア人勢力との間で激しい内戦が展開され、とりわけ1995年7月サラエヴォ近郊の町スレブレニツァにおいて約8000人のムスリム人が殺害された大虐殺の悲劇は当時の国際社会に大きな衝撃を与えた)。といっても本作品はボスニア内戦の悲劇を直接的に描くようなドキュメンタリー・タッチものではなく、イスラエルパレスチナの対立やネイティブ・アメリカンの迫害史など、現代世界を取り巻く様々な問題をある種の象徴としての「サラエヴォ」に凝縮し、より普遍的な形で、しかしどこまでも映画的な一つの「物語」として、戦争という難解極まりないテーマへのアプローチを試みている。

作品中にはパレスチナの詩人ダーウィッシュが本人役で登場するが、彼はユダヤ人の女性ジャーナリストに向かって真実というものに付随する複数の見方の存在を強調しながら「詩とは将来への命題か、あるいは権力が使う道具の一つなのだろうか」と投げかける。そして言う「喪失のなかにこそ偉大な詩は生まれる」と。政治と芸術は常に密接に結びついている。抵抗の詩が時として人々を解放する一方で、権力者は支配のために詩を利用する。それは映画にも音楽にも同様である。それらが持つ力の大きさについて、一体我々はどれだけ正しく理解しているのだろうか?

映画『アワーミュージック』は、一度きりで全てを理解できる作品ではないと思う。私は三回見て、やっとそれが言わんとしている思考の片端を理解した。だからといって、特別難解な作品なわけではない(むしろゴダール作品の中では分かりやすい方なのかもしれない。ただあまりに示唆的な言葉の連鎖の中では少しだけ立ち止まって考える時間が必要なのだ)。

私はきっとこれからも暫くは続くであろう未定に彩られた人生の中で、折に触れてこの作品と向き合うのであろうし、その都度世界の躍動と人間の針路について考え、悩み続けるのだと思う。

Text by NANASE

Cibelle

【MUSIC REVIEW】

ブラジル、サン・パウロ出身の現代音楽家Cibelle。伝統的なブラジル音楽やボサノバとエレクトロニカを混ぜ合わせたユニークな音楽をつくっています。ブラジリアン・エレクトロニカの立役者Subaらのアルバムに参加しています。

“GREEN GLASS”(2006年)はTom Waitsのカバーで、(冒頭で紹介しておきながら…)ブラジル色もエレクトロニカ色も強くないですが、やわらかな歌声と切ない空気感が何とも言えなく美しく、彼女の音楽世界の底深さを象徴しているような気がします。私はこのミュージック・ビデオを見て、彼女を好きになりました。浪漫的な情緒が溢れ出す一方で、同時に、どことない無気力感と冷笑的なリアリズムが漂うような。そんな印象を受けるのは、私だけでしょうか。

圧倒的な存在感と目を瞠るような色気、次は一体何をするんだろう?!と思わせてくれるような創造力。私はこういう、カラフルな女性が好きです。色々な音楽をつくっているので、とにかく一度聴いてみて欲しいと思います。

Text by NANASE

高木正勝-Bloomy Girls

【ART REVIEW】

高木正勝『BLOOMY GIRLS』(2006年、ブルーマーク)

現在、東京都現代美術館のコレクション展にて、メディアアーティスト高木正勝の映像作品《Bloomy Girls》(2005年)が展示されています。

会場に足を踏み入れたとき目の前に現れたのは、私がいつだって夢見ている、広がり、流れ出し、消えていく生の姿そのものでした。

私は瞬間を忘れないために、彼の作品の前に座り、心に浮かんできたイメージを記録しました。彼が創り出す圧倒的な作品世界について、推測や論理的な文章をもって語ることは、私には少し難しすぎます。なので、ノートに残った短い言葉の切れ端たちをご紹介することにします。

やわらかな、春の朝、光、花の匂い、雨上がりの、草木の匂い、水溜りの色、浮遊する瞬間、飛翔、幼年時代、少女の頃、感じていた、永遠のような一瞬、涙、脱中心の、時間、流動、消失、魚、緑色の、昆虫、午後の、空気の冷たさ、太陽、雲、消える、消える、刹那、憧憬、溶け合う、呼応する、絶望、溢れる、美しさ、母親、生の、喜び、自由、期待、蜜の香り、風、空、水、寛容、安心、愛、光、光、光、光・・・

心から「美しい」と感じられるものに、これから先の人生で、私はいくつ出会えるのでしょうか?涙を流すほどの感動と、それが「好きである」ということへの喜びを、何度味わえるのでしょうか?できることなら、私は私の最善を尽くして死にたい。それ以外に、私の人生を豊かにする方法はないと思うからです。

作品は、今月28日まで展示されています。

Text by NANASE